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大九明子インタビュー(短縮版)

『勝手にふるえてろ』(2017)が話題を集め、新作『美人が婚活してみたら』(2019)のスマッシュヒットも記憶に新しい監督大九明子。「ラブコメの名手」として確固たる地位を築きつつある彼女だが、大胆さと繊細さ(とギャグセンス)を併せもつその演出力と知性は、もはや「ラブコメの名手」にとどまってはいない。
映画美学校時代から大九を知る安井豊作と、監督作『月極オトコトモダチ』(2019)が公開中の穐山茉由をメイン・インタビュアーとして話をうかがった。

聞き手:安井豊作、穐山茉由
司会・構成:渥美喜子、川口力

 

 

映画が全てではないと知ってしまっていた

安井:まずは映画美学校に入るまでの経緯を聞かせてもらえますか。

大九:大学を卒業してから就職して普通のOLをやろうとしたんですがすぐ辞めて(笑)、人力舎のスクールJCAというお笑い養成所にいってました。当時は、本気で死にもの狂いでやってたんです。ただ私よりも面白いひとは周りに沢山いて、自分の才能ではここで戦っていけないということを心底思い知らされました。ゆっくりと時間をかけてジワジワと毒が効いていくように挫折していきました……。

――同期は誰がいるんですか?

大九:有名どころだとアンジャッシュさんがいます。当時女性は私だけでした。つい先日に人力舎から声がかかって生徒たちの前でトークをしたんですが、芸人を目指すいまの若者たちを目の前にして、目頭が熱くなりました。

――そこまで熱中した芸人への挫折から、映画美学校に入るきっかけはなんだったんですか?

大九:当時から映画館が憩いの場だったので、ユーロスペースや今はなきシネ・ヴィヴァン六本木にはよく通ってたんですが、行く先々に映画美学校のチラシが置いてあったんです。そのときはシンプルに面白そうというか、好きな監督たちが講師として名前をつらねていたので興味が湧いたくらいの感じだったんですけど、なんとなく応募だけしてみようかなと。

――映画美学校の開校時はシネフィルを中心にむちゃくちゃ盛り上がっていたと思うんですが、そういう熱狂からは距離があったということですか。

大九:むちゃくちゃありました。そもそも映画は私にとってどエラいものだったので、監督する欲望なんてさらさらなかった。自分が監督なんておこがましいと本気で思っていました。ただ、最終選考で選ばれた生徒4人が監督デビューすることは募集要項で知っていたので、そこまでの過程を見れるのが楽しみだなあという気持ちはありました。周りにも同じような距離感の人たちはいて、はっきりと分かれましたね。私みたいなタイプとギラギラした人たちと。黒沢清さんが学校に来るとギラギラ組が取り囲んじゃってすごかった。

――ギラギラ組との距離は感じながらも、最終選考に選ばれようという気持ちが芽生えたきっかけはなんだったんでしょう。

大九:芽生えてないですよ。そもそもシナリオを書けると思ってなかった。

――でも提出したんですよね。

大九:出したんですよね、ギリギリで。

――ギラギラ組には負けたくないというのがあったんですか?

大九:勝ち負けの感覚はなかったけど、怒りはあったかも。憧れたおしていた映画のひとたちも、けっこう鼻持ちならないやつらだなあと、当時の私は怒っていました。映画至上主義とでもいうか「映画道ほど険しく尊いものはないのだ」みたいな匂いをさせていて。でもピン芸人経験者としては、大ホールで一人でスベるほうが絶対に怖い。当時の私は27歳で他の生徒たちより年齢がすこし上だったから、余計にその手の連中に対する怒りがあったのかなと。

 

 

死のドライヴ

――『東京無印女子物語』(以下『無印』)は原案のかたが脚本にもクレジットされていますが、大九さんは脚本にどれくらい関わっているんでしょうか。というのも、デビュー作の『恋するマドリ』(以下『マドリ』)には出てこなかった、周囲に馴染めない登場人物や、心情を語るモノローグといった『勝手にふるえてろ』(以下『ふるえてろ』)に繋がる要素がこの作品から出てくるので。

大九:脚本はだいぶ直していますが、いま指摘された部分は原作のままのところもあるんです。ちなみに、私としては『マドリ』から一貫して似た人種を描き続けている気持ちがあります。あえてメイン・ストリームをいかなかったり、どうしても周囲とのズレを意識してしまう人たちです。

安井:そのへんは『ふるえてろ』や『美人が婚活してみたら』(以下『ビジコン』)に出てくる「死にたい」というセリフに繋がっていく要素でもあるよね。

大九:そうですね。ただ、あれも原作に出てくるんです

――とはいえ作品を追うごとに「死にたい」地点までのドライヴ感がどんどん上がっていくので、その辺はやはり意図されたものに思えるのですが。

大九:なるほど。たしかに原作から飛躍させているところはあります。たとえば『ビジコン』は、ファースト・シーンで「死にたい」というセリフから始まるところがこの作品のキモだとプロデューサーがいってたんです。私としては、題名の「美人が婚活してみたら」とセリフの「死にたい」ですでにオチてしまっているように思えたので、そこからどう物語を紡いでいけばいいのか、ヤバいお題をいただいてしまったとはじめは呆然としました。そこから必死で脚本を作っていくなかで「死」という言葉を原作以上に徹底して出すことにしたんです。

――脚本担当のシソンヌのじろうさんは、脚本を書くのが初めてだったんですよね。

大九:私、じろうさんとはグルーヴが合うのですごく仲がいいんです(笑)。この企画のお話がきたとき、じろうさんは会社からの指令で初めて映画の脚本を書くことになり、私は私でまだ原作を読んでもいない状況だったんですが、プロの脚本家と監督として脚本作りをいきなり丸投げされまして(笑)。だから必死でしたね。まずお互いの得意分野を分けて、映画畑の私がストーリーの軸を作ることを担当しました。その過程で、「死にたい」と「死ね」をどんどん足していったわけです。本音を話せる親友がいるだけでもじゅうぶん恵まれてるのに、簡単に「死にたい」とか口にする主人公にムカついたので、いってるだけじゃ済まさねえぞという気持ちになり、だったら己を殺すところまで徹底的にいわせてやるよと……で、ドライヴするところまでいってしまいました(笑)。プロデューサーには「こんなに「死」が出てくるのはちょっと……」といわれたんですが、いやいや「死にたい」で始まったからこそこれくらい出さなきゃしょうがないでしょと。だったら最初のセリフもいえませんよって、ああいうふうにしちゃったんです。

穐山:「死にたい」からはじまる鳩のファースト・シーンすごくいいですよね。

大九:ありがとうございます。あれは私の浪人時代の実話なんです。予備校には行かずに図書館で勉強してたんですけど、ささやかな楽しみとして公園でお昼ごはんを食べたり、鳩にお菓子をあげたりしてたら、ある日突然ああいうことがあったんです。私は「死にたい」じゃなくて「ぶち殺す」という気持ちになったけど(笑)、あのときは本当に世界が止まった気分でした。

穐山:日常のさりげないところで「死にたい」ところを切り取ってるのがいいなと。

大九:原作では、主人公が満員電車に乗っているとき心のなかで唐突に「死にたい」って思うんです。原作はそれで成立してるんですけど、限られた予算で電車のシーンは絶対に撮れないのもあってあのようになりました。

穐山:さきほども話に出たラストに向かってのドライヴ感は、たしかに大九さんの作品の大きな特徴のひとつだと思うんですね。『ビジコン』は比較的淡々とお話が進みますが、やっぱり終盤で熱量が一気に上がります。最後、主人公が一人でお寿司を食べて、川沿いを歩きながら歌うところは静かですが熱を感じる印象的なシーンでした。

大九:カタルシスを感じたり感情を揺さぶられる映画が好きなので、自分の作品でもそうする向きはあるかもしれません。お寿司を手で食べるシーンは、早い段階から頭のなかに浮かんでいたんですよ。昼間のお寿司屋で、美しい所作で箸を使ってお寿司を食べて、こぼれないけど目には涙が浮かんでいて、ビールも飲んでるだろうなと。それを丁寧に撮ろうと思っていました。

穐山:一人でお寿司食べるシーンはすごく印象に残っていて。というのも一人で生きることを最近よく考えるので。一人でいることに向き合うというか、考えることが多くて。だから『ビジコン』は最終的に婚活に失敗して終わるけど全然イヤじゃなくて、一人で終わらせてくれてありがとうみたいな感じがあったんですね。

大九:いま、おいくつですか?

穐山:36です。

大九:わりと30代の方からそういう感想をいただきます。たしかに、私も他人と一緒にいることが幸せだと思ったことはないです。親友がいるひとは羨ましいと思うけど。

 

 

〈私〉が面白いか/面白くないか

安井:穐山さんも自分の作品(『月極オトコトモダチ』(以下、『月極』))で大九さんに近いことをやっていて、モノローグで毒を吐かせるんだよ。

穐山:私は『ふるえてろ』に勇気づけられたんです。セリフをたくさん使うことを奥せずにやっている、あの作品の力強さに。私も美学校に入ったのは遅くて30歳になってからで。それまでまったく映画の勉強なんかしてこなかったので、周りのシネフィルたちから洗礼を受けたり、いろんなカルチャー・ショックがありました。そのなかのひとつに「女性の登場人物を喋らせすぎてはいけない」という呪いがありまして。きっかけはビデオ課題の講評で「(登場人物の)女が喋りすぎでぜんぜん魅力的じゃない」みたいなことをいわれたからなんです。

大九:へえ。講師のかたにいわれたんですか?

穐山:講師にいわれたんです。

安井:誰?

――名前出していいんじゃない?

穐山:それはさすがに(苦笑)。まあ、単にセリフが面白くなかっただけかもしれないですけど。

大九:でも言葉どおりに受けとめれば「喋りすぎの女は魅力的じゃない」という意味にも取れますよね。だとすれば、それは講師のただの趣味でしかないわけだけど……。ただ、さすがに本来の意図は違うところにあったと思いたいけど、意図はどうあれ呪いになっちゃったんですね。

穐山:自分のなかにずっと残ってしまって。「なんで喋っちゃいけないんだろう?」と。独りごとを喋るシーンも撮ったんですけど「独りごとって普通はいわないよね」と指摘されたこともあって……。そのへんのモヤモヤを『ふるえてろ』が突破してくれた感じがして、すごく勇気をもらったんですね。やっていいじゃんと。

大九:はじめはその手の批判を真に受けちゃうかもしれないけど、慣れると大丈夫ですよ。たとえば脚本打ち合わせで意見がズレたときに「そうですか、私はそうは思わないですね」とか「でも撮るのは私なので、私が面白いと思えないことは書けないので口説いてください」って応えています。「面白いと思ったら書きます」と。自分が面白いか/面白くないかで判断しちゃっています。

 

 

「女性性」はわからない

――さきほど出た「美人」の話とも関係するんですけど、『モンスター』以降の作品では、見る/見られるという「視線」の演出が強く意識されるようになりますよね。高岡早紀は「美人」だから見られる側でもあるけど、監視カメラで館内を見渡す側でもある。あの監視カメラは原作にないですよね。

大九:ないです。原作者は『黒蜥蜴』みたいなことをしたかったのかなと思ったんです。原作に出てくる館は、マジックミラー越しにいろんなものが見えるようにできているんですね。でも映画でやったら失敗するのはわかってたので、原作とは違うかたちで館内を監視する方法を考えなきゃいけなくて、それで監視カメラにしたんだと思います。原作ファンは、そこで膨らましてた妄想が普通っぽくなっちゃったと思うかもしれないけど。

穐山:クスリを齧りながら監視カメラのモニターを見ているシーンすごかったです。

大九:あれは原作になかったです。私が面白がってどういう女が怖いかなと考えて、クスリをガツガツ食べてたら気持ち悪いなと。

――『ビジコン』についてのインタビューで大九さんが、主人公がイケメン歯医者と肉体関係をもつときに、一方的に狩られるんじゃなく自分から狩りにいくような要素を入れたかった、というようなことを話していたと思うんです。『モンスター』も、整形で「美人」に変身した主人公が男たちを狩る話で、監視カメラで獲物に狙いを定めているようにも見えますね。

大九:まさに主人公はそういう人ですよね。美人になった後も、昔好きだった男を狩ることに執着しすぎて破滅してしまうんですが。『ビジコン』は、セックスをした後に落ちこむ構造にしたかった。被害者ヅラをさせたくなくて、自分に向けて「くだらない女、死ねよ」といわせたかったんです。俳優2人にお願いしたのは「モテ男女の頂上決戦」(笑)。お互いモテ人生を歩んできた男と女のセックスを、アクション・シーンのように撮ろうと思ったんです。たとえば、相手が服を脱いだら自分も脱ぐ。それを互いが刀を抜くところのカットバックのつもりで撮りました。2ショットのときも二人がイーブンに見えるように真横にカメラを入れたり、そういうことに気を配りながら撮りました。

――『モンスター』は、大九さんのフィルモグラフィのなかでは一見異色作に見えるんですが、この作品以降は一段ギアが上がった感じがするし、流れで追っていくと必然性をすごく感じます。

大九:さきほど『モンスター』の企画がなぜ私のところにきたのかという質問がありましたが、あくまで想像でいえば、このあたりの時期(2013年)は「女性監督」を探しているというケースがすごく多かったです。なので「女性監督」でつかまったのが私だったんだろうな、という感じはしてました。とはいえ私はそれ一つくらいで、以降は「こういう企画だからあなたとやりたい」というかたちでプロデューサーから話がくるんですが、『モンスター』のときはたぶん「女性監督」がよかったんだと思います。

安井:「女性監督」ってパッと頭に浮かぶレベルでいま何人くらいいるんだろう。多くなったのかな。
大九:多いんじゃないですかね。ただいまだに「女性としてどう思いますか?」と質問されることはあって、そのときは「私は女性の人生しか送ってないのでわかりません」と応えるようにしてます。私としては、あまり「女性性」を意識して撮ってないので。穐山さんは二作品を拝見したところ「女性性」を意識しながら映画を作っているのかなと思ったのですが。

穐山:はい。私は女子校出身なんですが、卒業して外に出てみたらぜんぜん違う文化があったりして、「性差」について考えてしまうことが多かったので。そのギャップがある意味で面白いなと思って、「何が違うんだろう」という純粋な興味と疑問が二作品のテーマになりました。ただ、私も「女性監督」と呼ばれることにはあまりピンとこないんですよね

――穐山さんは「性差」を問いとして作品であつかっていて、つまり「女性性」は研究対象のようなものだから距離感があるんじゃない? 「女性性」がわかりやすく「売り」になっているケースは、たとえば最近だと『21世紀の女の子』じゃないかと。15人の女性監督によるオムニバス作品ですが、まさにタイトルどおり「女の子」についての内容になっている。象徴的なのは、自分や同性パートナーが「女の子」でいられる限られた時間を「美しい瞬間」として写真にして残すという描写が複数作品に出てくるんですよ。それらと比較すると、どちらがいいという話ではなく、大九さんの作品は真逆ですよね。大九作品における「女の子」時代はだいたい暗い(笑)。

大九:おそらくそうだと思います。女性によるオムニバスというと、映画美学校の卒業生たちがやってた『桃まつり』はやめちゃったんですかね。

安井:自然消滅なのかな。

大九:もったいないですね。連日大盛況だったのを見て、率直にいって世の中ってチョレえなと思いました(笑)。もちろん面白い作品もあったし、そのときはそれぞれの作品に「女性性」を強くは感じなかった。『桃まつり presents kiss!』のとき全作品を見させられたんです。パンフにコメント書かなきゃいけなくて。しかもあのひとたちすごい厳しくて「明後日までにコメントください」って(笑)。血眼になって全部見たんですけど、どれも面白かった。「かわいそうな私を見てください」みたいなシミったれた作品は一本もなくて、清々しいじゃんって思った。だけど列をなして見に来ているお客さんの大半は違うものを求めいるんだろうなとも思っちゃったな。

――企画としては「女性性」を売りにしてるけど、それぞれの作品は好き勝手やってる感じですかね。

大九:うまいよね。企画力あるな、続ければいいのにと思ったんだけどね。

 

 

「ジャンル」もわからない

――『放課後ロスト』では、その後の作品にも繋がる「形式」の変化があったと思うのですが、このあたりからやりたいことが定まったという感じでしょうか?

大九:定まりつつあった感じですかね。原作をお題として与えられたときに、自分が見たい映画に「変換」するというか、それはずっと取り組んできたことなんだけど、「変換」の方法が段々分かってきたという感じでしょうか。あとは自分の好きなものが明確になってきたというか……好きなものというより、嫌いなものがわかってきたのかなと思います。

――自由になった感じ?

大九:そうですね。

安井:「嫌いなもの」というのは、たとえば?

大九:絵に描いたような幸福を撮りたいとは思わなくて。なぜなら、眩しすぎちゃって目がつぶれてしまうので(笑)。他人の幸せをやっかんでるわけじゃないけど、興味が湧かないんです。嫌いといってしまうといい過ぎかもしれないけど、本当にまったくやりたいと思わない。

安井:私には縁がないという感じ?

大九:面白く描けるビジョンがないんです。

――映画美学校の授業では、世の中でうまいことやってるやつらとか、それを疑ってないやつらに一矢報いるという意思が『意外と死なない』(以下『意外と』)の腹パンチには込められている、といってましたね(笑)。
大九:そんなヘンなこといってた? まあそうかもしれない(笑)。一矢報いるというか……他人の幸せを見て心があったかくなることは私だって当然あります。ただ、自分がそれを映画でやりたいかというと、そうではなくて。「家族愛」を描いた映画は大体オエーてなっちゃいます。みんなそれぞれ好きな映画があるじゃないですか。その意味で私はその手のやつにオエーってなっちゃうので、そういった要素が原作にあると端折っちゃって、自分が見たい方向に脚色していきます。そのやりかたが本数を重ねることで掴めてきた感じですね。

安井:これはお願いになるんだけど、「眩しい幸せ家族」を主人公にした「ラブコメ」を敢えてやってほしいなとも思うんですが。

大九:これはお応えになってないかもなんですが、『ふるえてろ』のプロデューサーが私のところにはじめて原作を持ってきたときに「これをラブコメにしたいです。ただし私が考えるラブコメは、監督が考えるラブコメとはたぶん違います」と。さらに「最近の日本で量産されているティーン向けのラブコメじゃなく、大人の女性でも楽しめる、外国映画のようなラブコメにしたいんです」と彼女がいったんです。いいたいことのニュアンスは分かるけど、「ラブコメ」という「ジャンル」がどういうものか私のなかではっきりしてなくて。そもそも私は、映画における「ジャンル」全般がよくわかってない。だからこの原作を、笑いがいっぱいある映画にしたいと私のなかで理解して、そういうスタンスで『ふるえてろ』は撮りました。ただ、けっきょく宣伝は「ラブコメ」っていう売りかたをしたんですよね。だけど松岡茉優さんがいちばん最初にいってました「ラブコメじゃないです」って。東京国際映画祭の壇上で「誰ですか? ポスターにラブコメって書いたの。一生懸命生きてるひとって、他人から見たら面白く見えちゃうんですかね。あんなにつらい思いしてやったものはラブコメではない。もっと必死なものをやったはずだ」と彼女はいってて。作り手として、私もその感覚に近いんです。「ジャンル」は観客やプロデューサーが決めればいいやと思ってて。「ラブコメ」という「ジャンル」に分類するノウハウを持っていない私が、「これがラブコメです」といってしまうのは違うかなと。なので、自身が面白くて笑える作品を作ります、というお応えならできるかなと。

安井:結果的に「ラブコメ」として受け取られるなら、それはそれでよいということか。

大九:そうですね。売るひとと観客が決めればいいと思ってて。私としては「ラブコメ」もそうだし、「ホラー」、「サスペンス」、なんでもいいんですけど、そういった「ジャンル」に寄せて撮ろうとしたことがないんですね。『ふるえてろ』では、「ラブコメ」以外にも「会話劇」にしたいとプロデューサーからいわれて、私としてはその「会話劇」のオーダーにノッたわけです。だから、さきほど穐山さんが「喋らせすぎては魅力的でなくなる」と講師から注意されたといってましたけど、それは決して一般論ではない。単にその講師の趣味でしかないといったのには、そういう前提があるんです。

穐山:「ラブコメ」とは違うんですが私も似たようなことを経験してて。『月極』に出てくるキャラクターが「こじらせ女子」だといわれるんですよ。そういう機会が多くて、私はこじらせてるつもりで書いてなかったので、これが「こじらせてる」んだと他人からいわれて知りました(笑)。たぶん『ふるえてろ』の主人公も「こじらせ女子」っていわれがちだと思うんですけど、その状況をどう捉えていますか?
大九:いわれますね。だけど、まったく意識してなかったうえに、そもそも『ふるえてろ』が公開されたとき「こじらせ」という言葉はここまで一般化されてなかったんですよ。私としては、よそさまが発明した面白い表現だと思っていたんです。初出は『女子をこじらせて』でしたっけ。作者は亡くなってしまったんですよね。

穐山:雨宮まみさんですね。

大九:そう。雨宮さんが死にもの狂いで生み出した表現だと私は思っていたので、安易に使うべきではないと思っていた。あれから二年が経って「こじらせ」はだいぶ一般化されて、私はどんな映画を作っても「こじらせ女子を描かせたらやっぱ大九さんですね」とかいわれるようになりましたけど、勝手にいわせておけばいいやと思ってます。「ジャンル」は私が決めることじゃないから、「そうですか」とだけ応えてますね。ただ、自分の手が届く範囲で、宣伝部や俳優には使わせないようにしてますけど。

 

 

面白いことへのアンテナ

安井:さっき話にでたけど、穐山さんの作品は二本とも見たんだよね。

大九:はい。

安井:率直にいってどうだった?

大九:順番に映画美学校の作品(『ギャルソンヌ』)から見たんですけど。まず卒業制作という枠組みのなかで芸能界を描こうとしていたので、このひとも、ひょっとすると私が『意外と』をやったときと同じように、一生のうちで映画を撮れる機会なんてこのタイミングしかないから、できる/できないじゃなくて、やりたいこと全部やってやれって思ってるひとなのかなって思った。だって無茶だもん(笑)。どうしたって芸能界に見えないし、そういうことをやっちゃってるのがすごいなと思って。

穐山:そうですね。しかも30分でテーマも重めだし、無茶なことやってましたね。

大九:ただ作品の重心が「女性性」や「ジェンダー」の方にかかっていたので、表現したいポイントはそこにあるのかなとか、そういうことを考えながら見てました。

穐山:私としては修了制作を撮りたい気持ちは満載だったんです。初等科では選ばれなかったので、さすがに高等科は撮りたいなというのもあって虎視眈々と狙ってました。ただ選ばれたあとも、何したらいいかわからないところから始まって、スタッフもみんな美学校生で、同じくらいのレベルでみんなで手づくりという感じだったので、ある意味恐れを知らない感じだったと思います。

大九:ただ二作目(『月極』)では、制限が必ずしもマイナスではないと経験から思い至ったのかなという気がしましたけど。たとえば一作目の「芸能界」みたいに大きなものを描こうとするとき、二作目だと「会社」になりますけど、会社員をなさってるご自身が普段から見聞きしていることの延長線上にうまく落とし込んでるなという感じがした。あとスタッフはプロですよね?

穐山:一応そうですね。みんな美学校の先輩なんですけど。

安井:やっぱそうか。カメラの動きとか、編集もすごいなと思った。

大九:それらのものを得て飛躍的に自由になったという感じがしました。やりたかったことを具現化できるようになっていて、それがプロと仕事することの旨みなんだと思います。そこを臆せずにきちんとやり続けていってほしいです。ちょっと否定されたからといって、自分の居場所は商業映画にはないんだ……とかいって勇退するみたいなことをしないでほしいなと(笑)。プロはこちらから球を投げればちゃんと応えてくれるひとたちだから、そこをどう面白がっていくか。テーマの核は一緒なんだけど、一本目と二本目では飛躍的に変わったなと思ったの。それがやれたことはご自身の糧になったんじゃないですかね。

穐山:美学校の授業で大九さんがプロのスタッフと作ることの面白さを話していて、私はまだ身近な人達でしたけど、やっぱり格段に違うということを体感したばかりだったのでうなずきながら聞いてたんです。あと、現場に転がってるちょっとした面白いことに気づくアンテナの話もほんとその通りだなと。これは、もともと大九さんの作品を見ながら感じてたことでもあって、こまかな演出とか、本当にちょっとした動きとか、そういうところを現場でキャッチしてるんだろうなと思いながら見ていたので、これもうなずきながら聞いてました。

大九:そうなんですよね。必要なことだけをやるのが現場というふうになっちゃうと、お仕事としてつまらんじゃないですか。それじゃあ終わってんなと思うんですよ。特に監督なんか、なんの存在意義もないというか、現場でいちばん何もできないひとだから。いなくてもいいのが監督。こっちのほうが面白いからこういう風にしてくださいって伝えたり、あそこで面白いことが起こったので撮ってくださいとか、それくらいしか役割がない。だからこそ「面白いこと」へのアンテナは常に張っておくようにしています。

【了】

 

本稿はウェブ用に構成した短縮版(約10,000字)です。
完全版(約30,000字を予定)は2019年末〜2020年初頭に刊行予定のシネ砦第二号に掲載します。お楽しみに。

 

 

大九明子、おすすめ映画テキスト

「そして映画はつづく」

そして映画はつづく
アッバス・キアロスタミ

地球で一番好きな監督。監督の作品を貪るように観ていた頃に発売され、何度も読んで、今も強い影響を受けている。後に私は映画美学校に入るわけだが、監督が授業に来たことがあり、本にサインもいただいた!宝物!ちなみにその際生徒の作品を何本かご覧になった監督が、なんと私の「意外と死なない」を気に入って褒めてくださったらしいのだが、私がその事実を知らされたのはだいぶ後。何と意地の悪い学校だろう。直接御礼申し上げたかったのに。

「女性映画監督の恋」

女性映画監督の恋

石原郁子

私がこの本を手にしたのは、石原さんがお亡くなりになってからだった。「意外と死なない」を取り上げてくれているらしい、とSNSで知ったのだ。これまたなぜすぐ情報が私に届かなかったのか。悲しい。映画美学校のいち生徒が撮った小さな映画を、田中絹代からジェーン・カンピオンといった偉大な監督たちの作品と名を連ねて取り上げてくださった。自分の思いに忠実に撮っていれば誰かが観てくれているという確信を得た一冊。

「映画の声」

映画の声――戦後日本映画と私たち

御園生涼子

著者は映画美学校同期生。2015年没。もっと時間を共にしたかった人。あの頃みそちゃんは、頭が良すぎて繊細で大人のご都合を許さないキレキレの東大生で、大島渚が好きだったんだっけ。そんな彼女が、不思議といつも、拙作を好いてくれていたのだが、この本を読んでその理由が分かった気がする。視野の端でカサっと動いたものに敏感に照準を合わせるように映画を見ている人だったのかな。まだ寂しい。